朝早く家を出た。


 ランチアは、ご機嫌なエンジン音を立てて東北道を軽快に駆け上がる。昼前に、仙台の近くから、橋本のメモにあった民宿に電話を入れて宿の手配をした。
 このまま東北道を北に進むと二時間ほどで北上ジャンクション。そこから秋田道に入って、一時間ほどで秋田道の終点の昭和男鹿半島まで行く。
 そして、国道七号線に入り、八郎潟を見ながら北に向かうと、能代市だ。地図では、能代市からは山道を一時間ほど走ると佐治井村につくはずだった。
 東北道は空いていた。
 秋田に入った頃から見え始めていた北方の美しい山並みは、能代までくるとかなり迫って見えた。
 ガソリンスタンドに立ち寄りガソリンを入れてもらいながら、スタンドの従業員に、
 「今から佐治井村に行きたいんだけど、あれが、白神山地ですね?」
 と聞くと、彼は頷き、佐治井村は白神山地のすぐそばだと言いながら道を教えてくれた。
 山道を走って、村に着いたのは、それから一時間後。
 初夏とはいっても山の日の暮れは早い、目的地を見て回るのは翌日にして、早々に、宿に入った。
 宿から、夏美に電話をしたが、やはり留守。携帯も電源が切れたまま。

 翌日、朝食をとり終わるとさっそく村に出た。
 木造の古い小学校校舎。同じく古い郵便局。水田と水車小屋。川と桜の並木。段々畑。放牧場。クマザサの藪。製材所。
 橋本が印をつけてくれていた地図を頼りに、版画に描かれた場所を次々に見て回った。
 どれも、皆、懐かしい感じのするものばかり。
 少し前には、日本中、どこの農村に行っても、よく似た風景が見られたことだろう。
 高度成長と引き換えに、置き去りにし、捨て去ってきたものたち。
 印象は、写真を見たときよりも数段上で、版画との一致が間違いないことを確信した。
 やはり、古い記憶にはない、風景だった。それに、海。
 地図を見ると、岩館というところに印がしてあった。
 一旦能代まで戻って、海沿いを回り、一時間半ほどで目的の場所についた。
 日本海の荒波というイメージからはほど遠い穏やかな波が、ごつごつとした黒い岩の海岸に打ち寄せていた。
 版画の海は、おそらく冬なのだろう。
 今よりはずっと波が荒い。
 今時分の波は穏やかだが、きっと、冬は打って変わったように白い牙をむいて岩にぶつかってくるのだ。
 けれども、波が打ち寄せる岩の様子、海岸、灯台、季節の差こそあれ版画の通りだった。
 灯台のそばまで行って、車を降りた。
 それほど大きくない白亜の灯台。
 二十年前から無人になったというその灯台は、日本海の青い空と群青の海を背景に孤高の趣を持って屹立していた。
 おそらく何十年もの間、荒波の日本海に向けて灯りを送り続けてきたのだろう。
 その間に、おそらく、数多くの危険から船と船乗りたちを救ってきたに違いなかった。
 すぐ下まで行って、灯台を見上げ、近くに置かれたベンチに座って海を見ていると、背中から声をかけられて驚いた。
 「こんにちわ。」
 と言われ、振り返って見ると、七〇才近い老人が立っていた。
 上下お揃いのえび茶色のコーデュロイのジャケットとパンツ。青いタンガリーシャツ。斜めにかぶったハンチングキャップ。昔のオシャレさんといった感じのいでたちだ。
 「こんにちわ。」
 「東京からですね?いい車だ。」
 老人は、にこっと笑った。
 「ええ。東京から来ました。この辺りの方ですか?」
 老人は頷き、自分の名と、昔、この灯台の灯台守だったことを告げた。
 「灯台守ですか?」
 猪飼と名乗った老人は、二〇年ほど前まで、この灯台は有人で、自分は、最後の灯台守だったのだと言った。
 「そうですか。大変だったんでしょうね。台風だったり、時化だったり。」
 老人は思い出話を僕に語った。
 今は能代にいると言った老人は、おそらく、そういう思い出と向き合うために、日々、昔の職場を訪ねてくるのだろう。
 そして、出くわした話し好きの人に語って聞かせるのが、生きがいになっているのかもしれない。
 老人の幸せそうな笑顔を見ながら微笑んだ。
 深く刻まれたしわには、長年の灯台守としての苦労が同時に刻まれているのだろう。
 だが、そんな苦しみを乗り越えてきた先に得たささやかな今の幸せに満足している老人に僕はあるべき老後の父の姿を重ねた。
 能代に泊まっているのかと聞かれて、いや、佐治井村にいると言うと、
 「あそこはいい。とても、いい村だ。」
 と彼は言い、自分は元は佐治井村の出なのだと言った。
 「ここからだと村はどの方向になりますか?」
 と聞いてみた。
 老人は、山の方を指さし、あそこの二つの山の向こうに見える黄緑色が、佐治井村の山だと教えてくれた。
 「山の頂上にある木のほんの先っぽだけが見えるでしょう。」
 と言われ、目を凝らして見ると、深い緑の山の間に、少しだけ顔をのぞかせている黄緑色が見えた。
 「どうして、あそこだけ、色が違うんです?」
 「こっちの山は、秋田杉。」
 と言ったあとで、でも、まだ若い木だから、本当の秋田杉とは言えないのだが、と続けた。
 「あっちは?」
 「あ。あれは、ブナです。」

 猪飼氏を誘い能代の街で昼食をとった。
 食事をしながら、職業を聞かれ、版画家と答えると、彼は、作品が見たいものだと言った。
 僕は、まだ、駆け出し中だと言って、ごまかした。
 「創作のためのスケッチ旅行?」
 「まあ、そんなところです。」
 「白神のブナ林を見に?それとも秋田杉かな?」
 「ええ。まあ、いろいろと。何せ、まだ、勉強中ですから。」
 僕は笑って頭をかいた。
 彼もにこっと笑い、思いついたように、 
 「昔はあそこにも杉の植林をした時代があったんですがね。」
 と言った。
 「あそこ?」
 「ほら、さっき見た黄緑の。」
 「あ。ブナと言ってた黄緑色ですね?」
 「ええ。そう。ある年の台風の時に、山津波が起こってしまって。」
 「山津波?」
 山全体が崩れるような大きながけ崩れのことだと老人は語った。
 「そうなんですか。それは、いつ頃?」
 「そうですねえ。かれこれ、二十二、三年前になりますか。」
 二十三年前と言われて、ハッとした。
 僕が、父とこの近くを訪れた頃だ。
 がけ崩れ?
 そうだ。そうに違いない。
 「その後に、あの山には杉はまずいということになって、ブナを植えたというわけです。」
 「どうして、杉はまずいんですか?」
 「いえ。杉がよくないと言うのではなくって、あの山の構造の問題です。南側の斜面が崩落したんですが、石ころの多い場所でね。そんなところに、根の弱い杉を大量に植えたものだから、地盤が弱くなったんでしょうね。たくさんの水を含んだまま、崩落したというわけです。」
 戦争中から戦後すぐの頃の国策で、日本中に植林が進められた時代の生み出した人災だったのだと猪飼氏は言った。
 「それで、あそこだけ色が違うんですね。」
 「ええ。山田さんって営林署に勤めてた人が、あそこにはブナを植えなきゃいかんってことを村や県に説いて回りましてね。そりゃあ、一生懸命に。それで、やっと許可が出て、植えたってわけです。今じゃ、ブナは、やれ広葉樹だ森林浴だなんだと騒がれてますが、昔は、役に立たない邪魔ものの木と思われてましたからね。頑固で有名な人でしたよ。中学校の先輩だったんですけどね。ときどき、さっきの岬にも来て、海を見てました。ちょうど、あなたと会った、あの辺りから。」
 老人は、まるで自分のことを語るように山田という人のことを熱っぽい調子で語った。
 「山田さん、ですか?」
 「ええ。いい人でしたが、もう亡くなりました。十年ほどになるかなあ。」
 十年ほど前に亡くなった営林署の職員と聞いて、ピンときた。それでおそるおそる尋ねた。
 「山田さんは、お孫さんと暮らしてませんでしたか?」
 「ええ。暮らしてました。孫娘を引き取って。なんて名前だったかなあ。可愛い娘だったんだけど。」
 やっぱり。
 「夏美、じゃありませんか?」
 と聞くと、
 「そうそう。夏美ちゃんだ。でも、どうして、知ってらっしゃるんですか?」
 老人は、不思議そうな顔をした。
 「いや。ちょっとした知り合いで。」
 僕は、山田老人のことも思い出していた。
 面識があるのだ。二十三年前にたった一度だけ。

 別れ際、僕が親切に教えてもらったことの礼を言うと、
 「あんたなら、きっと、いい版画家になれるよ。早く売れるようになって、ご両親を喜ばせることだね。」
 と彼は言った。
 「ありがとう。そうします。」
 別れると、来た道を村に戻り、それから、村を抜けて、隣町の国道に出た。
 昔、父と走った道。
 記憶の通りだった。
 山の側で、左に曲がった。
 あのときもそうしたのだ。
 父は、忘れていたが、僕は思い出した。
 あのとき、僕たちは、大きな崖崩れのあとを見た。
 そして、そこで、植林をしている山田老人を。
 父は、僕に近くまで寄って見ることを提案し、僕が賛成すると、喜んで、国道をそれてこの林道に入った。
 たまたまそうだったのか、植林の現場にいたのは、山田老人だけだった。
 チェロキーを降りた父は、老人のいるところまで、山を上っていった。
 そのときの父の服装まで思い出していた。
 ブルージンにカーキ色のジャケット。白いスニーカー。当時まだ日本では珍しかったカタログ通販で買ったアメリカ製の品々。
 子どもだった僕にとって、そんなおしゃれな品々をスマートに着こなしている父は、自慢だったものだ。
 そんな父のあとにしたがって山を登った。
 子どもには険しい山道だったが、父に励まされて、汗をかきながら登った。
 「こんにちわ。いい天気ですねえ。」
 父は、気さくに老人に話しかけた。
 「ああ。こんにちわ。ほんとう、いい天気だ。」
 老人は、にこやかに答えた。

 車を降りて、ブナ林に囲まれた山道を登りながら、あのときのことを鮮明に思い出していた。
 父は、言ったのだ。
 「手伝わせてもらえませんか?」
 老人は驚いた顔で父を見た。
 「ご迷惑なのは、わかりますが、子どもに、貴重な経験をさせてやりたいんです。」
 老人は、静かに頷くと、ほほ笑んで見せた。
 そして、父と僕に、苗木の植え方を教えた。
 等間隔で穴を掘り、根の覆いをはずした苗木を置いて、土をかけていく。土は、強く抑え過ぎてもいけないし、少な過ぎてもいけない。
 下から運び上げられた苗木は一カ所にまとて置かれていた。
 父は、そこから苗木を持ってきて、老人に言われた通りに穴を掘って植えた。
 僕も、父のやることを真似た。
 汗をかきながら、膝をついての作業。
 二人はすぐに泥だらけになった。
 父は黙々と働き、僕も、父を見ながら働いた。
 二時間ほどで、置かれていた苗木はすべてなくなった。
 老人は、最後に一本残った苗木を手に、僕に近寄ると、
 「これを持って、わしのあとに着いてきなさい。」
 と言って、苗木を手渡した。
 戸惑いながら父を見ると、父はそうしなさいと言うように頷いた。
 僕は苗木を持って、山を登っていく老人のあとに続いた。
 父も僕のあとについて山を登った。
 老人は、山の頂まで来ると、辺りを見回した。
 僕も、周りを見た。遠くに、緑の秋田平野。逆を見ると、白神山地のトタン板のようになだらかな稜線が美しく輝いていた。
 「海も見えるじゃろ。」
 指さした方を見ると、山と山の間に、群青色の海が小さくのぞいていた。
 彼は、僕にスコップを渡し、そこに、苗木を植えるようにと言った。

 僕はいつまでそのことを覚えていて、いつの間に忘れてしまったんだろう。
 父と一緒に木を植えた辺りを歩きながら考えた。
 子どもだった僕の背よりもずっと低かった苗木は、今では、どれもみな立派な若者の木に成長していた。
 ブナの若い黄緑色の葉を微かな音を立てて揺らした風が、僕の頬に浮かんだ汗をそっとなでた。
 父が、僕が、そして、夏美の祖父が植えたブナの林。
 老人の顔がはっきりと浮かんだ。
 白髪混じりの短い髪。深いしわを刻み込んだ日焼けした顔。包み込むようなやさしい笑顔。
 頑固だがやさしい山の男の顔だった。
 あの祖父のもとでなら、幼くして両親を亡くすという深い悲しみを負った少女も、きっと、のびのびと健やかに育ったことだろう。
 「私、ちっとも不幸じゃなかったから。ううん。幸せだったの。」
 と言った夏美の言葉を思い出し、ほほ笑みながら頷いた。

 一時間半ほどをかけて頂上に到着した。
 眼前に迫る白神の山々。
 田植えを終えて水のはられたたんぼの広がる秋田平野は、キラキラと光って見えた。
 そして、ブナの梢を通して、山と山の間に小さく浮かび上がる群青色に輝く海。
 僕は、二十三年前、自分が植えたブナの木の側に立った。
 周りには他にも木があったが、一目見たとたん、僕はすぐにそれだとわかった。
 「坊や名前は?」
 山田老人の声がよみがえった。
 「小林正弘。」
 「そうか。正弘か。いい名前だ。」
 僕の目の高さにしゃがんで、彼はほほ笑んだ。
 「いいか。正弘。よく覚えとくんだぞ。この木は、お前さんが植えたんだ。木に生きる場所をやったと言ってもいい。」
 よくはわからなかったが、何となく、老人の言っていることがわかったような気がして、うん、と頷いた。
 「この木は、やがて大きくなって、種を作り、子孫を殖やすだろう。すごいと思わないか。その最初の木を今、お前さんが植えたんだ。」
 「うん。すごい。すごい。」
 何度も繰り返した。
 「よかったな。ほんと、すごいよ。」
 父はそう言って、僕の頭に手を置いた。

 夢中で、自分の植えた木に駆け寄った。
 そして、幹に手を触れた瞬間、すべての答えを一瞬に受け取った。
 人間同士のコミュニケーションとは、まったく別の方法で。
 木漏れ日を浴びた灰色の幹が霞んで見えた。
 目から涙が溢れ、頬を伝って足元の地面に落ちた。
 「お前だったのか?」
 声が震えた。
 梢を見上げると、木は、今度は、ゆっくりと、僕の頭に、イメージを送り込んだ。
 赤い瓦で葺かれた木造校舎。白く塗られた壁。校庭で遊ぶ子どもたち。窓からそれを見ている先生。
 レンガ造りの古い郵便局。赤い自転車の郵便局員。その傍らで挨拶をかわす野良着姿の婦人。
 川端で風にそよぐ柳と満開の桜。群れ集う人々。花見の宴会。
 用水路の傍らに咲くタンポポ。水車小屋。
 春の田植えと秋の実り。
 村祭。段々畑。牛が草を食む緑の放牧場。クマザサの藪。製材所。
 そして、海。
 それは村の中で唯一、山の頂にある木だけが見ている完全な海の風景だった。
 頭の中で、一つ一つの風景をいとおしむように眺めた。
 連作に描かれた風景。
 木が、僕に送ってくれたメッセージ。

 すべて見終わると、別な光景が映し出された。
 「覚えてくれてたんだね。」
 褐色の土の上にしゃがみ込んで一生懸命に木を植える少年。
 僕だった。二三年前の僕。
 傍らで見守る若い父と元気だった山田老人。
 新しい涙が込み上げてきた。
 長い間、僕がずっと忘れてたことを木はずっと覚えていてくれた。
 シャーーッという音が耳の奥で聞こえ、さまざまなイメージが見えた。
 僕だけしか知らないはずの、少年時代からの日常。
 「ずっと、見ててくれたんだ。ずっと、いっしょだったんだね。」
 声にならなかった。
 僕は、その場に崩れた。
 不安を抱えて、転校先の学校に登校していく僕。
 さまざまな友だちの顔。
 自転車での飛び出し。突っ込んでくるトラック。閃光。倒れている僕。壊れた自転車
 助けてくれたんだね。
 声に出さず、心の中で言ったが、通じた。
 耳の奥の音のトーンが少し上がって、先日の事故の光景が見えた。
 走って飛び出す僕。トラック。閃光。道路を染めた絵の具。
 ひたすら泣き続けた。
 父に連れられて行ったモーターショー。ランボルギーニ・カウンタック、マセラティ・ギブリ、フェラーリ・テスタロッサ、そしてランチア・ストラトス。
 中学時代の初めての恋。失恋。
 高校での、岬たちとの出会い。鮮やかによみがえる青春時代。
 美大の入学式。版画製作。

 そして、木は、彼のやり方で、山田老人の思い出と夏美のことを僕に語りかけた。
 荒れた山肌に、汗をかきながら苗木を植え続ける山田老人。
 台風の中を心配そうに木を見つめる後ろ姿。夏から秋の下草刈り。冬の見回り。
 作業をする老人の傍らにぴったりとより沿う少女。幼い日の夏美。
 花を摘む夏美。
 ドングリ拾いをする夏美。
 走る姿。笑い顔。涙。
 制服姿の夏美。自転車通学。バスケットボール。淡い初恋。
 村を出ていく夏美。
 希望に満ちた笑顔。そして、挫折。
 藤原との出会い。結婚。不幸な別れ。
 夏美と僕の出会い。僕のランチア。助手席で笑いこける夏美。
 愛し合う二人。
 ひとり見知らぬ街を歩く、夏美。
 ずっと、つながっていたんだね。今も、ずっと。
 やさしい光に包まれながら、僕は今までに感じたことのないとても深い幸福を感じた。
 自分が、決して一人じゃないんだという幸福。何かとつながっているという安心感。

 いつの間にか、ショーは終わっていて、気がつくと、辺りは、幸福な夕焼け色に染まっていた。
 もう帰ろう。
 帰らなくちゃ。
 でも、離れていても、これからもずっと一緒だよね。
 もう一度、ブナの木に抱きつき、顔を強く押しあてて、心の中でお別れを言うと、山を下りた。
 ブナは、言葉で言う代わりに、僕の心を熱くして答え、見送ってくれた。
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