「行ったことない、か。」


 ベッドに寝転んでつぶやいた。
 とても残念な気がした。
 あの連作の舞台が、自分の故郷の村だったら、夏美はどんなに喜んだだろう。
 そのときの笑顔を見られないのが悔やまれた。
 父の地図で見た佐治井村。
 夏美が話した山も載っていた。海の側に二つの山がある。高い山に登れば少しは海が望めると彼女が言った村の西側にあるそれより少し高い山も。等高線を見ても、その山に登れば、海側の二つの山の間から、少しは海が見えるはずだ。
 僕に等高線を含めた地図の見方を教えてくれたのも、また、父だった。
 だが、やっぱり、ちがう。
 版画の海は、大きく広がっていて、岬の灯台までが見えないといけないのだ。
 地図を見る限り、それは無理なように思えた。片一方の山が邪魔をして、岬はその影になる。

 無理かと思ったが、夜中を省みずに、橋本の携帯に電話を入れた。
 幸いすぐに出た橋本は、まだ起きていて、今、仙台のホテルにいると言った。
 「仙台か。僕も昔住んでたよ。」
 「そうなんですか?」
 「うん。小学生の頃に、二年ほどね。」
 「で、何でしょう?先生の方から、僕にお電話なんて、珍しいけど。」
 「実は、」
 僕は、佐治井村のことを橋本に話した。
 地図で見た村の場所、子どもの頃その近くにまで父と一緒に行ったこと、夏美の話、そして、そこからは見えない岬の灯台のことも。
 「君とこの会社なら秋田にも支社があるだろう。そっちの人に聞いてみてもらえないかと思ってね。」
 橋本は、じっと聞いていたが、
 「わかりました。」
 と言うと、自分で秋田に行って見てくると言い出した。
 「それはありがたいが、大丈夫なのか?出張なんだろう。」
 「ええ。それはそうですが、先生のお仕事のお手伝いをするのも仕事のうちですから。それに、一ファンとしても、見てきたいんです。」
 「うん。」
 「仕事は急げば、明日には終わらせられますから、明後日にでも、秋田まで行ってきます。」
 「そうか。じゃあ、そうしてもらおう。」
 橋本に礼を言って、電話を切った。
 無理かもしれないという不安と、もしかしたらという期待の入り交じった気持ち。
 ソファーに深く坐ると財布を取り出して開いた。
 夏美からもらった名刺を財布についた透明なカードケースにはさんでいた。
 写真付きの名刺。少しとりすましたよそ行きの笑顔の藤原夏美。

 次の日は五月晴れ。
 ゆっくりと起きて、コンビニ弁当のブランチを取ると、散歩がてら絵の具を買いに歩いて出かけた。
 街路樹のまぶしい新緑を見ながら、歩き慣れた道を十分ほど歩いて、画材店に行き、足りなくなってきていた絵の具をどっさりと買い込んだ。
 「今日は、店長は休みなんだね。」
 支払いをしながら、見慣れないレジ係に気さくに話しかけた。
 「ええ。」
 アルバイトの学生だろうか。無精ひげを生やした長髪の男は、無愛想に答えた。
 ちぇ、こっちが、せっかく、愛想よく話をしてるのに。
 まあ、しょうがないか。
 俺もこの年齢の頃は・・・。
 ウインドウ越しに、渡る方の信号が青に変わるのが見えた。
 受け取ったおつりをポケットに突っ込み、あわてて店を出る。
 小走りに歩道を横切り、道路に飛び出した。
 「あっ。」

 それからのことは、気を失っていたから、よくわからない。
 気がついたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは白い天井。
 「よかった。気がついて。」
 夏美の声がして、首を動かすと彼女がいた。
 少し頭が痛んだ。
 「ここは?」
 かすれた声で言った。
 「病院よ。あなた、ずっと、気を失ってたの。トラックにひかれたのよ。うまく倒れ込んで、地面とボディの間に入ったのは、奇跡的だって、先生がおっしゃってた。」
 夏美は泣いていた。
 「どうして泣いているの?」
 わけがわからずに聞いた。
 「あなたのせいよ。こけたときに、頭を強く打ったみたいで、意識が戻らなかったの。」
 夏美はしゃくり上げながら言った。
 僕のために泣いてくれている夏美。
 「先生を呼ばないと。」
 ナースコールのボタンを押し、
 「どうしました?」
 というインターホンに向かって、
 「気がつきましたから、先生にお伝えしてください。」
 と言ったとき、もう、夏美は泣きやんでいた。
 そして、何も覚えていないと言う僕に事故のことを説明した。
 大型トラックの運転手が、ぼんやり運転をしていて、信号を見落としたところに、僕が、飛び出してきた。
 絵の具のたくさんはいった紙袋は、トラックのタイヤにひかれ、飛び出した絵の具で、道が複雑な色に染まっていたらしい。
 画材店の店員は、アルバイトで、僕がどこの誰とも知らなかったが、持っていた財布の中から、夏美の名刺が見つかって、病院の看護婦が夏美に電話をしたということだった。
 「取るものも取りあえずに部屋を飛び出してきた。」
 と言った彼女は、髪の毛をポニーテールに結わえ、白い木綿のボタンダウンにブルージーンズ。
 「似合ってるよ。」
 と言うと、
 「ありがとう。」
 と言って笑った。
 ノックがして、医師が入ってきたときには、記憶はほとんど回復していた。
 医者は、ほどこした処置のことを説明し、多少の打撲のほか、大きな外傷がなかったのは、奇跡的だと繰り返した。
 「気を失っている間に、いろいろと検査をしましたが、どこにも異常はありません。」
 医師は自信を込めて言った。これは、奇跡だと言わんばかりに。
 「じゃあ、帰ってもいいんですか?」
 とっさに聞いた。
 病院嫌いと言うわけじゃないが、あまり好きなほうでもない。ましてや、入院など。
 「一晩、様子を見て入院されることをおすすめしますが、どうしてもとおっしゃるなら、お止めはしません。」
 「そうですか。ありがとう。」
 すぐにでも退院したいと申し出た。
 病院があまり好きじゃないということは言わなかった。
 医師は、僕の版画のファンだと言い、いつか一枚買って、家に飾るつもりだと言った。
 一枚差し上げるからほしいやつを言ってくれと言うと、自分はそういうつもりで言ったのではないからと固持したが、それでもと僕が聞くと、そのうち、『サンゴのある風景』が一番好きな作品なのだと言った。
 笑顔で、きっと届けると約束をした。
 『サンゴのある風景』は、連作とは別の作品だ。僕のファンと言った医師が、連作のどれかじゃなく、それを一番好きと言ってくれたことがとてもうれしかった。
 医師が出ていくと、夏美に、
 「僕の実家に知らせた?」
 と尋ねた。
 「いいえ。連絡が取れなかったの。調べてお電話差し上げたんだけど、お留守みたいで。留守電にもなってなかったから。」
 母の外出好きとおっちょこちょいな性格に感謝した。
 「そうか。よかった。」
 「やっぱり退院するの?一晩くらい入院した方が。」
 夏美は心配そうに言ったが、僕が、
 「いや。家のベッドで寝たい。」
 と言うと、それ以上は言わず、退院の手続きをしてくるからと言って部屋を出た。
 帰ろうとするところを事情聴取のためにやって来た警察に捕まったが、僕のけがは軽傷で、すでに、トラックの運転手が自分の全面的な否を認めていたらしく、簡単なもので済んだ。
 外に出ると、すっかり夜になっていた。
 「それにしても良かった。本当、奇跡的よね。」
 タクシーに乗ると、夏美が話しかけてきた。
 僕は、病院から借りたパジャマ姿。
 着ていた服は、絵の具だらけになっていた。
 汚れた服をビニール袋に入れて持ってきてくれた看護婦に、持って帰るかと聞かれて、そちらで処分してほしいと言った。
 持ち物は財布だけ。中には、夏美の写真入りの名刺が入っていた。
 「ああ。奇跡だ。トラックが目の前に迫ったとき、死を思ったね。」
 大げさでなくそう言った。
 まともにぶつかっていたら、そうなっていたに違いない。
 「でも、とっさに、体を倒したんでしょう?」
 「違うんだ。ぶつかる前に、気を失って倒れたんだ。」
 僕は言った。
 「ぶつかる前に?」
 夏美は聞き返した。
 僕は頷き、その瞬間のことを話した。
 トラックが目の前に迫ったとき、フラッシュがたかれたようにまぶしくなって、目を押さえた。すると、途端に目の前が真っ暗になって、気を失った。後ろに倒れていく自分を感じながら。すべてが一瞬の出来事。
 「へえ。そうなんだ。意外と気が弱いのね。まあ、そのおかげで死なずに済んだんだけど。」
 笑っている夏美に背を向けて、窓の外に過ぎてゆく街の灯りをぼんやりと見ていた。
 景色を見ていたわけじゃない。ぼんやりと、別のことを考えていた。
 「ごめんなさい。」
 という夏美の声で我に返った。
 「ん?」
 「気が弱いなんていったから。気に触ったんじゃないかと思って」
 「いや。そうじゃないんだ。少し考え事をしてた。」
 「考え事?」
 夏美は見つめることで僕を促した。
 「うん。同じことが、前にもあったんだ。子どもの頃。」
 「本当に?」
 僕は頷き、夏美に話した。
 中学生のときだった。
 遅刻しそうで焦っていた自転車の僕は、信号のない交差点で飛び出してしまった。運悪く曲がってきたトラック。ブレーキをかけたが間に合わない。
 その瞬間にも、やっぱり気を失っていた。
 気がつくと、病院。
 自転車は、ぺしゃんこのスクラップになったが、気を失ったままトラックの下に潜り込んだ僕は、かすり傷を負っただけ。
 駆けつけた母に、医者は、やはり、奇跡だと言っていた。
 いろいろ恐い目にもあったが、そんなときに、気を失ったというのは、後にも先にも、そのときと今回だけ。
 「へえ。そうなんだ。」
 「気が弱いわけじゃないよ、念のために言っておくけど。」
 と言って笑った。
 夏美は笑わず、まっすぐに僕を見て、
 「それって、きっと、守られてるのよ。守護天使とか、守護霊とか、ご先祖様とか。とにかく、感謝しないと。」
 とても、確信を持った言い方。
 「君、それ、本気で言ってる?」
 「もちろん。」
 夏美はほほ笑んだ。

 肩を借りて、家に入った。
 それほど大した打撲でもないから一人出歩けると言ったが、夏美は聞かなかった。
 その肩は、小さく細く、体重を掛けると折れるんじゃないか心配だと言うと、彼女は、
 「平気平気。子どもの頃から山で鍛えられてるから。」
 と言って笑った。
 僕をソファーに坐らせると、夏美は、台所に行ったが、すぐに戻ってきた。
 「何、あの冷蔵庫。入ってるものと言ったら、冷凍のピザとアンチョビの缶詰と、ビールだけじゃない。」
 いかにもあきれたと言うふうにそう言うと、何か買ってくると言った。
 「いいよ。そんなことしなくても。そうだ。出前を取ろう、出前。」
 「駄目よ。私、買い物してくる。」
 部屋を出ようとする夏美を止めようとして、立ちあがった瞬間に、向こう脛に痛みが走って、
 「あいたたっ。」
 と言いながら、ソファーに落ちた。
 血相を変えて近寄ってきた夏美は、心配そうに僕の顔を見ながら、
 「どこが痛いの?」
 と言った。
 ここと言って、右足の向こう脛を指さすと、彼女は、そこに掌をあて、
 「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの飛んでけー。」
 とお呪いの文句を言ってから、掌を離し、僕を見て、にこっと笑った。
 「もう、痛くない?」
 「うん。痛くない。でも、ここも痛い。」
 左足の膝を指さした。
 「ちちんぷいぷい。痛いの痛いの飛んでけー。」
 「ここも。」
 左のわき腹。
 「ちちんぷいぷい。痛いの痛いの飛んでけー。」
 「ここも。」
 右の肩。
 「ちちんぷいぷい。・・・・」
 次々に指さすと、彼女は、それぞれの場所にお呪いを繰り返した。
 「もう。嘘ばっかり。」
 ほっぺたをふくらませる。
 「本当だよ。体中痛いんだから。」
 「もう。」
 「本当だってば。」
 「そう。でも、もうおしまい。」
 「じゃあ、あと一カ所だけ。」
 「しょうがないわね。どこ?」
 僕は、夏美を見ながら、体のうえに指を這わせた後で、ここと言って、唇を指さした。
 夏美は、一瞬、えっという表情をしたが、僕の唇に、指をあて、僕をじっと見た後で、指をはずして、代わりに唇を重ねた。
 絹の肌触りのような唇の柔らかさが、僕をとろけるような気持ちにさせた。
 離れようとする夏美を抱きしめ、唇が離れないようにした。
 彼女は少し抵抗したが、少しだけだった。
 二人は、まだ口にしていなかった相手に対する気持ちを、触れ合ったお互いの唇と手で表現し合い、ベッドルームに移ってからは、体全体で表現した。もちろん、言葉も含めて。

 愛を確かめ合った後で、連作のことを夏美に話した。
 彼女は、黙って、話を聞いた。
 僕は焦ることなく、自分の話し方で話をした。
 僕の話しはときどき同じところを行ったり来たりするのだが、それでも、彼女は、頷いたり、「うん」と言うことの他には、何一つ、口をはさまなかった。
 そして、ようやく、僕が話し終わると、僕の頭を強く胸に抱きながら、
 「それでも、あれは、やっぱり、あなたの作品よ。あなたのやさしさがとてもよく現われてるもの。」
 と言ってくれた。
 僕は、何も言わず、彼女の乳首に口づけをした。
 「だけど、うらやましいなあ。あの先生。」
 「ん?」
 顔を上げて聞いた。
 「病院の先生よ。大好きなあなたの版画をプレゼントされるなんて。」
 「君にも、プレゼントするよ。」
 「私は駄目よ。」
 「どうして?」
 「だって、私、あなたの作品、みんな、どれも、同じくらい大好きなんだもの。」
 夏美は笑った。
 それが言いたかったのか。
 僕も笑った。
 君は、最高だよ。最高。
 僕は、夏美を強く抱きしめた。
 途端に、腕に痛みが走った。
 「あいたたたっ。」
 「あん。大丈夫?ひどくなったんじゃないかしら。」
 「大丈夫だよ。」
 「なら、いいんだけど。」
 夏美は、僕の腕にキスをした。
 「もう、寝ましょう。」
 「うん。」

つづく

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