すみれ  

 海を見下ろす丘の上は、あかねの一番好きな場所だった。
 遠くの水平線や入道雲、近くの岩に打ち寄せる波や沖をゆく船を見ているとざわざわとした心が落ち着くのだ。
 その夜も、嫌なことがあったあとで、丘に登った。灯りも持たずに飛び出したのだが、灯りの必要はなかった。折からの満月が、足元を照らしてくれていた。
 少しでも早く丘の上に立ちたくて足が自然に速くなった。毎夜月を見上げているあかねは、今宵が満月だということをずっと前から知っていた。
 丘の上に立つと、月光に照らされた波濤が見えた。風の凪いだ静かな夜だった。岩に当たって砕ける波の音だけが、一定の周期で繰り返していた。

 あかねは、満月を見上げた。
 (跳んでみよう。)

 岩場にあれが上がると、おじいは決まって言った。
 「月に行けなかったんだな。」
 あかねが不思議そうな表情を向けて無言で問い返すと、
 「跳ばないほうがいいっていうことだ。」
 と言って、小さなあかねを抱き寄せた。
 「いいか。あかね。なかなか行けるもんじゃない。跳ばないほうがいいんだ。」
 おじいは何度も、
 「わかったか。」
 と繰り返した。
 泣きそうな表情に見えた。
 それで、あかねが、
 「うん。わかった。」
 というと、おじいは、やっと、うれしそうに微笑んだ。

 満月の夜には、月の門が開いて導き入れてくれる。月の門の向こうには苦しみのない世界があるのだと、昔からの言い伝えがあった。それで、この地方では、満月の夜には、あちこちで月に手を伸ばして跳んでいるものたちを見かけるのである。ほとんどのものは、やがて諦めて、とぼとぼと家に帰っていくのだが、諦めきれないものたちのうち、何人かがあれになるのだ。小さなあかねにその話を教えたのも、またおじいだった。
 「おじい。」
 いつもは、おじいの悲しそうな表情が浮かんで、跳ぶことを断念するのだが、今日は違った。

 「みんな跳べると思って跳び上がるんだよ。」
 別なとき、おじいが言った。
 「でもなあ。そんな簡単なもんじゃないんだ。月に受け入れてもらうのは。うまく行かなかったもんたちは、あれになっちまう。」
 「跳べないの。どうすれば跳べるの。」
 あかねは問うた。
 「跳ばないほうがいいっていうことだ。」
 おじいは、小さなあかねを抱き寄せた。
 「いいか。あかね。なかなか行けるもんじゃない。跳ばないほうがいいんだ。」
 おじいは何度も、
 「わかったか。」
 と繰り返した。
 つらそうな表情に見えた。
 おじいの表情を見ているのがつらくなって、あかねが、
 「うん。わかった。」
 というと、おじいは、やっと、落ち着いたように微笑んだ。

 そんなおじいのことも思い出さないほどに、今日のあかねは、跳ぼうと決めていた。大きな満月は、いつもよりずっと近く見えた。手を伸ばせば届きそうだ。

 あかねは少し膝を曲げてから足の裏で強く地面を蹴り、両足をぴんと伸ばすと同時に手を高く挙げて跳び上がった。
 体は、指先から、すっと吸い上げられるように宙に舞い上がった。
 あっという間に、あかねは空の高みにいた。

 こわごわ下を見た。
 「ひゃー」
 ぶるっと体が震えた。
 だが、それもすぐに収まった。
 何しろ、体中が気持ちがいいのだ。
 重いものに押さえつけられ、地面の上にへばりついているときには、感じたことのない、うっとりしそうな心地よさだった。
 月は、さっきよりは少し大きくなったようにも見えるが、まだ、手は届かなかった。けれど、このままの速さで跳んで行けば、さほどしないうちに月に届くに違いないように思えた。自分の跳んでいる速さは、指先や顔に受ける風の流れの速さでわかったし、体中がひっぱり上げられる強い力も感じていた。
 指先に受ける空気の流れは、いつか橋の上から見た大水の日の川の流れよりも、ずっと速いように思われた。

 このまま月に行けるのだなと思うと、安心して眠くなった。
 うとうとしていたのは少しの間だと思う。けれど、気が付くと、ずっと高いところまで跳んでいた。地面はもうすっかり見えない。ついさっきまで立っていた大地は、足のずっと下の方で、青く丸い球に変わっていた。
 あかねは地上のことを思った。
 家族のことを考えた。
 まず最初に浮かんだのはおじいの表情。
 「跳べたよ。おじい」
 とあかねが言うと、おじいは微笑んだ。父と母が相次いで他界したあと、あかねを育ててくれたおじいとおばあ。そのおじいとおばあももういない。
 3つ年上のあにやんは、都会に出たまま戻ってこなかった。
 職場のことも考えた。自分が消えてしまったら、みんな困るだろうか。旦那は、きっと、あかねの顔など覚えてもいない。親方は、新しい子を育てて、あかねの代わりにこき使うのだろう。昼も夜もいじめるのだろう。仲よしのしずえも、新しい友だちを作って、きっと、うまくやっていける。
 あそこでは自分の代わりはいくらでもいるのだ。
 公園にいるユキはどうだろう。
 雪のように白いからユキと名づけた子猫のことは、少し心配になった。
 あかねが公園に行くと、ユキは足音を聞いてやってくる。あかねの足元に走ってきて、自分の体をこすりつけるのだ。あかねは、ただでさえ少ない夕食をユキのために残して持ってくるのだ。特にユキの好きなイワシやサンマは、自分が食べたいのをがまんして持ってきてやった。
 ユキがおいしそうに食べるのを見ると、自分が食べたよりもうれしい気持ちになった。
 だけど、ユキには、きっと誰かが餌をやってくれる。人懐こい声を出して食べ物をねだるすべを知っているユキは、あかねがいなくても生きていけるに違いないと思えた。
 その他の近所の人たちや世話になった人たちのことも一々考えてはみたが、誰にとっても、自分の代わりがいないとは思えなかった。
 箪笥や引き出しに残してきたものたちは。
 おかあやおばあから受け継いだ着物と帯が少しばかりと、いつか嫁入りのときに仕立ててもらえとおじいが遺してくれた羽二重。海で拾ったきれいな石や貝殻は、小さな缶いっぱいに詰まっていた。中でも一番のお気に入りの桃色の小石は、以前一緒にはたらいていたゆういちからもらったものだった。体調をこわして里に帰ったゆういちは、半年後に病気で死んだ。
 手紙や日記を人に見られるのは嫌だが、それは仕方がない。通帳に残した貯金にも未練はなかった。
 みんなで欲しい物をよけたあとで、残ったものは燃やしたり捨ててくれればそれでいいのだ。思いのこすことがないことをふりかえって、あかねは安心したように微笑んだ。
 と、そのとき、すみれの花が、心に浮かんだ。
 庭のかたすみに毎年咲くすみれの花。
 雨の当たらないその場所で、すみれは、毎年、決まって夏の終わりに枯れそうになる。そのままにしておけないあかねが、水をやってことなきを得るのだった。
 そう言えば、もうじき、水をやる時期だ。
 あかねは思った。
 花の時期を過ぎたすみれのことなど、誰も気にしていない。ましてや、気をつけないと見過ごしてしまうような庭のかたすみ。
 (駄目だ。私がいないとあの子は死んでしまう。あの子には私が要るんだ。)

 あかねは、もうすぐ月に届きそうな指先を見た。
 そして、伸ばした指の先からゆっくりと力を抜いた。
 途端、あかねのからだを上に向けて引っ張っていた力が消えた。同時に、今度は、足が引っ張られていくのがわかった。さっきとは逆方向のすごい力だった。
 (やっぱり、月には行けなかった。おじい。ごめん。)
 涙が、月に向かって流れていった。

 気が付くと、丘の上に突っ立っていた。
 ふっ、とため息をついて、あかねは、視線を海に落とした。
 砕け散る波濤が、月に照らされて輝いていた。

***************  FIN  ***************