旅の途中


 もうすっかり忘れた昔のこと。

 長い間、ぼくはおじいさんと暮らしていた。
 うんざりするくらいに長い間。

 おじいさんと言ってもぼくのおじいさんという意味じゃなくて、彼の髪の毛がそう呼ぶにふさわしいくらいに白くて少なくって、顔や手が深いしわに覆われていて、十分に老人だったということだ。

 ある日のこと。
 ぼくは、寝ているおじいさんの耳から黒い毛のようなものが出ているのに気づいた。
 それは、おじいさんが息をするたびに少しゆれて動いた。そして、それを見ているうちに、ぼくはどうしてもひっぱりたいという衝動を抑えられなくなってしまったんだ。だから、指先でつまんで少し引っ張ってみた。
 するとそれはあとからあとから出てきて、どこまでも引っ張れた。

 ぼくは夢中になって引っ張り続けた。
 本当に夢中だったんだ。今から思えば、どうしてあんなに夢中になって引っ張ったのか、その理由が思いつかない。

 どれくらいの時間そうしていたんだろう。
 気がつくとおじいさんはもう息をしていなかった。

 ぼくは、長く伸びた黒い毛のようなものをたどって旅に出ることにした。

 古いドアを開けると、ずっと先まで黒いものが伸びていた。
 ぼくは住み慣れた家を出て、振り向きもせず歩き続けた。

 おじいさんにさようならを言わなかったことを少し後悔したけど、しばらく歩いているうちにそんなことはすっかり忘れてしまった。

 花畑の中でぼくは小さな少女と出会った。
 二人はいっしょに歌い、いっしょにお茶を飲んで、いっしょに空を見た。
 忘れていた旅のことを思い出して、ぼくがお別れを言うと、少女は机の上に立って、キスをしてと言った。
 ぼくは椅子のうえに上って、彼女の唇にキスをした。

 ぼくはポケットから真っ赤なルージュを取り出すと、石のように動かなくなった少女のほほに「さようなら」と書いて、また旅を続けた。

 砂漠の中の町で、ぼくは可憐な踊り子と出会った。

 真っ赤なスカートと真っ赤なハイヒールがお似合いの可憐な踊り子はぼくのベッドのうえで可憐に踊った。
 踊り子が体を揺すると、ベッドがギシギシときしんで、ぼくもきしんだような声を出した。ぼくが抱きしめると、踊り子もきしんだような声をあげた。
 白かった壁は、ピンクになって赤くなって、紫色になって、やがて、黄色くなった。
 踊りのあとで、ぼくがお別れのキスをすると、踊り子は大きな目から一粒涙をこぼしてから、やがて機械仕掛けのようにベッドから飛び降りて、リゴドンダンスで踊りながら部屋を出て行った。

 そしてぼくはまた旅を続けた。

 いつの間にか黒い毛のようなものはぼくの視界からもうすっかりなくなっていた。
 それに気がつくと、少し気になったけど、すぐに気にならなくなった。
 そしてぼくは自分が自由になったことに気づいた。

 「ぼくは自由なんだ。」
 大きな川の畔で、向こう岸に向かってぼくは叫んだ。
 向こう岸はいろいろな色の光に満ちていて、きらきらと輝いて見えた。
 石を投げると届きそうにも見えたが、実際に投げてみると、石は、途中で、むなしく川の中に消えた。
 でも、向こう側ははっきりと見えていたんだ。
 だから、ぼくは、どうしてもあっちに行きたくって仕方なくなってしまった。

 そしてぼくは川の中に入っていった。
 当然そうして歩いていけば向こう岸に行けるし、行けないわけがないと思っていたんだ。
 だから水の流れが急になったときも引き返そうとは思わなかった。
 でも、少し歩き出すと、岸で見ていたときには、すぐ近くのように見えていた向こう岸は霧に霞んだようになって見えなくなった。やがて、水の流れはぼくの予想を超えて強くなっていって、ぼくはとうとう流れに足を取られて転んでしまった。

 あれからずっと流れ続けているんだ。
 最初は下を向いていたのが今では空を見ながら。

 あれからどれくらいの時間が経ったんだろう。

 もうすっかり忘れた昔のこと。