にじのきざはし



 目を閉じて、黒い猫を思い浮かべてください。
 やせっぽっちの小柄な猫です。
 名前は、ネロ。
 口に花をくわえています。

 寒い冬の日でした。
 灰混じりの北風が、立ったまま黒い炭になった家々の柱にぶつかって、ピューピューと音を立てていました。
 凍てついた地面の上も、真っ黒こげの炭になった家や家具や他のいろんなものの残骸。
 街は一面黒焦げの焼け野原でした。

 そんな黒と灰色の街に、やせっぽっちの黒猫が一匹いたのです。
 普通なら、きっと、誰もが気づかなかったに違いありません。
 けれども、実際には、多くの人が目をくぎ付けにされました。
 ネロは、いつも、口にきれいな花をくわえていたのです。
 焼け野原の街を、花をくわえて歩いていくネロを見ると、人々は、なぜか、胸がキュンっと締めつけられるような不思議な気持ちになりました。

 夜の闇が黒い毛色に混じり始める頃、疲れた足を引きずりながら、ネロはねぐらに戻ってきます。
 ねぐらといっても、柱も壁も屋根も黒い炭になって、上も下もわからなくなってしまった焼け跡の下の小さなすき間です。
 吹き込んでくる真冬の寒風は、骨と皮だけに痩せてしまったネロに容赦なく襲いかかりました。
 凍てついた土は、足元から体中を冷やします。骨まで凍ってしまうほど寒い夜。
 ネロはひとりぼっちでした。

 何もかもが大きく揺れたあとの大火事で街中が焼けたときのことを、ネロはどうしても思い出せませんでした。
 気がついたときには、家からずっと離れた河原にいたのです。
 火傷もしていました。
 灰をかぶったからだを舐めながら、ふと我に返って辺りを見回すと、そこは見たことのない河原でした。
 「ミャーン」
 心細い声を出して、ネロは、しづちゃんを呼びました。
 いつもは、そうやって鳴くと、きっと、しづちゃんが来てくれたのです。
 「ミャーン」
 まだ、あちらこちらから煙の出ている街の中をネロは、火傷の痛みをこらえながら、必死になって、しづちゃんを探しました。
 けれども、しづちゃんは、どこにもいません。
 空腹を満たすために、壊れた家の中で、食べ物を探すことも覚えました。
 それまで、ネロは、食べ物の心配などしたことがありませんでした。
 食事は、いつも、おなかをすかせる前に、用意されていました。
 けれども、今では、自分で探さなければ食べられないのです。
 壊れた家に行けば、食べ物にありつけるというわけではありません。
 先に食べ物を見つけた犬や猫がいて、乱暴な声で、激しく追っ払われたりもしました。
 自分が先に見つけた食べ物を食べようとしているときに、他の誰かがやってきて、横取りされることも度々ありました。
 そんなとき、喧嘩をしたこともなく、争うということさえ知らないネロは、ただ怖くて、逃げるしかありませんでした。

 ようやく見覚えのある庭の木を見つけたのは、何日も経った日のことでした。
 何度となくすぐそばを通っていたのに、少しも気づかなかったのです。
 何しろ、街中が焼けて、景色がすっかり変わっていましたから。
 半分が焼けて真っ黒になった柿の木は、近くによると、確かに、しづちゃんの家の庭にあった柿の木でした。
 家は、焼け落ちて、炭になった柱と少しの瓦が残っているばかりでしたが、しづちゃんの家である証拠に、柿の木の脇には懐かしい小さな石積みが残っていました。

 おなかをすかせたまま眠るとき、どうすればいいのか。
 悲しいけれど大切な智恵は、経験がネロに教えてくれました。
 楽しかったことを思い出せばいいのです。
 すると、しばらくの間は、おなかが減っていることを忘れていられる事をネロはいつの間にか覚えました。

 ネロは、しづちゃんと花畑に行ったときのことを思い出していました。
 お父さんの運転する車に乗ってピクニックに出かけたときのことです。
 お父さんのとなりにはお母さんがすわり、しづちゃんとネロは、うしろの席。
 街を出て、いくつもの山を越え、川を渡りました。
 お父さんが車を止めて、しづちゃんが、ドアを開けると、ネロは、一目散に飛び出しました。
 緑の山の中腹の少し平らになったところに、赤や黄色や白のたくさんの花が咲く花畑はありました。
 「ネロ、まって」
 しづちゃんが追いかけてきます。追いかけっこのようでした。ネロは、うれしくなって、走り回ります。
 青い空の、遠くの方に、雲が白く光っていました。
 しばらく走り回ったあとで、ネロは、
 ?
 と思いました。
 うしろを追いかけていると思っていたしづちゃんが、いつの間にか、いないのです。
 辺りを見回すと、しづちゃんは、しゃがみこんで何かをしていました。
 ネロは、近くによってみました。
 何をしているのかな?
 しづちゃんは、にこにこしながら手を動かしています。
 何をしてるの?としづちゃんの顔をのぞき込みました。
 「お花を摘んでるんよ」と、しづちゃんは教えてくれました。
 「これが、白爪草。こっちが、赤爪草」
 しづちゃんは、摘みたての花をネロの顔に近づけました。
 白と赤の小さな手毬のような花でした。
 ネロも、花を摘んでみることにしました。
 しづちゃんは手で摘むのですが、ネロは口で摘みます。
 青臭い臭いを我慢しながら、白爪草の茎に顔を近づけ、歯で茎をかみ切りました。
 苦い!
 ネロは、ペッと、くわえた茎を吐き捨てました。
 ゲー、っと言う顔をして見せると、しづちゃんは、笑いながら、「苦かったんやね」と言って、頭をなでてくれました。

 ネロは、しづちゃんになでられるのが、大好きでした。
 しづちゃんが、なでてくれると、いつも、のどを鳴らします。
 ゴロゴロゴロ。
 「気持ちええ。」とか「ありがとう」という意味でした。

 ネロがまだずっと小さかった赤ちゃんの頃から、いつもそうでした。
 しづちゃんは、いつも、ネロの頭やからだを優しくなでてくれました。
 ネロは、しづちゃんが大好きでした。
 お父さんやお母さんも好きでしたが、やはり、一番は、しづちゃん。
 ネロに毎日ご飯をくれるのは、しづちゃん。ネロのトイレの掃除もしづちゃん。からだをふいてくれるのもしづちゃんです。
 でも、ネロがしづちゃんを一番好きだった理由は、そればかりではありません。
 大切な理由が、他にあったのです。

 ネロを見つけて、家に連れてきてくれたのが、しづちゃんだったのです。
 ネロは、しづちゃんのひざの上でからだをなでてもらいながら、お母さんとしづちゃんが、そのときの話をしているのを何度も聞いて知っていました。
 とても冷たい雨が降っていたそうです。
 学校帰りのしづちゃんは、長靴を履いて、傘をさしながら、家までの坂道を歩いていました。
 前の日から降り続いた雨で、あちらこちらに水たまりができていました。
 家のそばの空き地まできたとき、ふと、耳慣れない声が聞こえたような気がしました。
 チーチー
 とても、小さな声でした。
 鳥かな?
 しづちゃんは、足を止めて、耳を澄ませました。
 チーチー
 小さな声は、空き地のすみに置かれた段ボール箱から聞こえていました。
 しづちゃんは、水たまりの中を歩いて、泥のかぶった段ボール箱のそばまで行くと、中をのぞき込みました。
 「たいへんやー」
 捨て猫でした。雨に濡れてびしょびしょになった段ボールの中に小さな小さな子猫が4匹、冷たい雨にからだを濡らして、ぐったりとしていました。
 「チーチー」というのは、中の一匹が、かろうじて、泣いていた声だったのです。
 傘を投げ捨て、段ボールを抱えると、しづちゃんは、家への道を走りました。
 「おかあさん。たいへんやー」
 玄関のドアを開けるなり、しづちゃんは、大声で叫びました。
 驚いて出てきたお母さんは、ずぶ濡れのしづちゃんを見てびっくりしました。
 「どうしたん?!」
 しづちゃんは、段ボール箱を差し出して、お母さんに見せました。
 「あらー。たいへんやなあ」
 お母さんは、急いで、たくさんのタオルと、しづちゃんの着替えを取ってくると、しづちゃんに着替えをさせている間に、段ボール箱の中の子猫を一匹一匹ふき始めました。
 「からだが、氷みたいに冷たいわ。かわいそうになあ。寒かったんやろう」
 3匹は、ぐったりとして動きません。小さい声を出していた一匹も今は声もなくタオルの中でふるえています。冷たい雨に打たれているうちに弱り切っていたのでした。
 「お医者さんに見てもらわな」
 しづちゃんは言いました。
 お母さんは、籐のかごに数枚のタオルを敷いて、その上に赤ちゃん猫たちを乗せると、上からも、タオルをかぶせました。
 二人は、レインコートを着込むと、かごを抱えて、家を出ました。

 「かわいそうになあ。3匹は、死んでましたわ」
 白衣の獣医さんは、悲しそうな顔をしました。
 しづちゃんとお母さんの顔も曇ります。
 「一匹は、何とか、助かりそうです。でも、あんまり小さいから、注射もお薬も出せへんさかい、こうやって、温めてやってください」
 獣医さんは、しづちゃんの方に合わせた両手を伸ばして、上に乗せていた手を少しだけ開きました。黒い子猫が、その中で震えていました。
 しづちゃんは、両手で、子猫を受け取りました。
 羽毛のような柔らかい毛の生えた小さいからだ。まだ目も開いていない赤ちゃん猫です。
 からだは乾いて、温かくなっていたけれども、ぶるぶると震えているのが伝わってきました。
 その子猫が、ネロだったのです。

 「これが、あんたの兄弟のお墓やで」
 しゃがんだひざの上にネロを乗せたしづちゃんは、庭の隅の小さな石積みの前に庭で摘んだコスモスの花を置いて手を合わせました。
 真っ赤な実をつけた柿の木の下にお墓はありました。
 ネロは、兄弟の顔を知りませんでした。
 何しろ、兄弟たちが死んでしまったのは、赤ちゃんのときで、まだ、目も開いていなかったのですから。
 目が開いたとき、最初に見たのは、しづちゃん。
 遠い記憶をたどってみても、思い出されるのは、しづちゃんとお母さんの匂いだけでした。
 それでも、お墓にお花を供えて手を合わせて拝んでいるしづちゃんをひざの上から眺めていると、ネロは何となく温かな気持ちになるのでした。

 「虹!」
 ふと、思い出しました。
 そう。「虹!」。あのとき、しづちゃんは、うれしそうに、そう言った。
 花畑で遊んだときのことです。
 ──きれいや。
 しづちゃんが指さした空を見上げながら、ネロは思いました。
 七色のアーチ。ネロは、虹を見るのは、それが初めてでした。
 花畑のずっと向こうに見えた虹は、天に向かって架けられた七色の橋のようでした。
 焼け跡のねぐらで、そんなことを思い出しながら、いつの間にか、ネロは、眠ってしまいました。
 もしかしたら、思い出していると思ったこと自体が、夢だったのかもしれません。

 出会った猫たちは、みんながみんな意地悪だったわけではありません。
 中には、親切な猫もいました。
 せっかく見つけた食べ物をあとから来た野良犬に盗られて泣いていたときのことです。
 「坊や。ほないに、泣かんと。こっちおいで」
 と声をかけてくれたのは、片方の耳のないキジトラ猫のおじさんでした。
 おじさんは、ネロをねぐらに案内すると、少しあった食べ物を分けてくれました。
 「みんな、必死なんや」
 おじさんは言いました。
 「あの犬かってそうや。前は、気のええやつやったんや。俺らが、そばを通っても、吠えへんかったもん。それどころか、自分の食べ残したもんを、よう、俺らに食わしてくれたもんや」
 「そやけど、さっきは、ものすごう怖かった」
 「みんな、変わってしもうたんや。特に、人間に変われてたやつらはな。あの地震以来すっかり変わってしもうた。しかたないんやけどな。何とかして、自分で生きんならんにゃから」
 おじさんは、少し悲しそうな目をしました。
 「おまえも、人間と暮らしてたんやろ」
 「うん」
 ネロは、おじさんに、しづちゃんの話をしました。
 「やっぱりな。わかるんや。おまえ、品のええ顔してるもんな」
 ネロが、「そうなん?」という顔をすると、「おう」と、おじさんは肯きました。
 「それに、人間に飼われてた連中は、どう言うたらええかなあ、俺ら、もとからの野良猫とは、どこか臭いが違うんや」
 「野良猫?」
 「おう。人間たちは、俺らのことをそう呼んでる。自由な猫っちゅう意味なんや」
 「自由な猫か」
 「そうや、自由な猫や。俺らは、どこへ行こうと自由、どこで寝ようと自由。何をしても、自由な猫なんや。まあ、おまえも、今は、野良やけどな。慣れてしもうたら、楽しいもんやで。誰にも、指図されたりしいひんにゃから。自由。自由。すばらしき自由や」
 「おまえ。なんて名前や」
 「ネロ」
 「ネロか。俺は、なんちゅう名前やと思う、ネロ」
 「さあ」
 わかんないよと言う顔で、ネロはおじさんを見ました。
 おじさんは、にこりと笑いました。
 「俺には、名前なんてないんや。生まれたときから野良猫やさかいな。名前なんて余計なものはなんや」
 「ふうん」そんなもんか、とネロは思いました。
 それ以外には、何とも思わなかったのです。
 ネロは、自分の名前を気に入っていました。
 ネロという名前をつけてくれたのも、しづちゃんでした。

 「なあ。おかあさん。この子、どういう名前にしようか」
 「そうやなあ。どういう名前がええかなあ」
 そんなふうに、しづちゃんとお母さんは話しあったそうです。
 「小さくって黒いから、チビクロかなあ」
 「そやけど、猫は、すぐに大きくなるよ。大きくなって、チビクロやったら、ちょっと変やん」
 「そうやなあ。そしたら、クロは」
 「クロか。それもええなあ。お父さんに聞いてみたら。しづちゃん。きっと、お父さんやったら、いっぱい言葉知ったはるさかいに」
 「そうやなあ。そうしょう」
 しづちゃんの一家は、とても仲のいい家族でした。
 
 「なあ。お父さん。お父さん」
 お父さんが会社から帰ってくると、しづちゃんはにこにこと笑って駆け寄りました。
 「ただいま。しづちゃん。ごきげんやなあ」
 「おかえりなさい。お父さん。なあ。お父さん」
 しづちゃんは、掌の中の隠しごとがうれしくってしょうがないのでした。
 お父さんは、ん?という顔をして、しづちゃんを見つめました。
 しづちゃんは、合わせた掌をお父さんの顔のほうに伸ばしました。
 お父さんが、掌のほうに顔を近づけると、しづちゃんは、そっと掌を開いて、お父さんに見せました。
 「わー」
 と、お父さんが、驚いた声を上げると、しづちゃんは、クスクス。
 「かわいい子猫やなあ。どうしたん。しづちゃん」
 しづちゃんは、雨の中で子猫たちを見つけたときのことや、4匹のうち3匹が死んでいたこと、お医者さんに連れていったことを話しました。
 「そうか。かわいそうやったなあ。3匹が死んだんか」
 お父さんは、悲しそうな顔をしました。
 「うん」
 しづちゃんの顔も曇ります。
 「でも、この子は、助かってよかったな」
 お父さんの顔が、ぱーっと笑顔になると、しづちゃんの顔も明るくなります。
 「うん。よかった」
 「おまえ、よかったなあ。」
 と言って、お父さんは、子猫の頭をなでました。
 「なあ。お父さん。この子、なんて名前にしょう。お母さんが、お父さんに聞いてみい、って」
 お父さんのひざの上に座ったしづちゃんは、お父さんの顔を見上げます。
 「名付け親か。そら、大役やなあ」
 「なあ。なんか、ええ名前、考えて」
 お父さんが挙げてくれた候補の中で、しづちゃんは、ネロという名前を選びました。
 イタリア語で黒という意味のネロ。子猫には、とても、ぴったりの名前に思えたのです。
 「ネロ。ネロ」
 にこにこ顔のしづちゃんが、名前を呼びながら頭をなでてやると、子猫は、「チーチー」と声を出しました。
 「この子も、ネロがいいみたいやわ」
 子猫は、口元にあてられたしづちゃんの指を吸いながら、とても、ご機嫌の様子です。
 「ほんまやなあ。喜んでるわ」とお父さん。

 おじさんは、野良猫の暮らしが、どれだけ楽しいものか、いろいろとネロに話して聞かせました。
 けれども、ネロには、わかりませんでした。
 いくら野良猫の暮らしは素晴らしい、自由は楽しいと言われても、やっぱり、ネロは、しづちゃんと一緒にいたいと思うのでした。
 「でも、ここらの食料も、食べつくしてしもうたさかいに、俺は、よそに移ろうと思うんや」
 おじさんは言いました。
 おじさんの言う通りでした。探し歩いてもほとんど見つからないほど、食べるものは、少なくなっていました。
 「おまえもけえへんか」とおじさんは、誘ってくれました。
 「ううん。ぼく行かへん」
 ネロは、きっぱりと答えました。
 「しづちゃんを探さなあかんから」
 「しづちゃんっていうのは、飼い主やろ。忘れてしまえや、人間のことなんか。おまえを捨てたんやろ」
 「捨てた?」
 思いもよらない言葉でした。
 「そうや。おまえ、捨てられたんや」
 「そんなことないもん。火事の中で離れ離れになっただけやもん」
 ネロは、とても悲しくなって、泣きだしました。
 「そうか。ごめんな。あの火事やもんな。仕方なかったんやなあ。そうや、きっと、仕方なかったんや」
 おじさんは、何度も、「仕方なかったんや」と繰り返しながら、ネロの毛づくろいをし始めました。 
 ネロは、しゃくり上げながら、「うん。うん」と肯きました。

 泣きながら眠ってしまったネロが目を覚ますと、もう朝でした。
 おじさんは先に起きていて、
 「おはよう」
 と言いました。
 「おはよう。おっちゃん」
 「昨日は、ごめんな」
 おじさんはとてもすまなそうな顔をして、ネロの顔をのぞき込みました。
 「ええよ。もう」
 怒ってないという印に、ネロは、しっぽをふりました。
 「そうか。ありがとう」
 おじさんも、しっぽをふりながら、にこっと笑いました。
 「俺、考えたんやけどな。おまえ、小そうて、黒うて、ぜんぜん目立たへんやろう」
 おじさんが何を言おうとしているのかわからなかったけど、ネロは、肯きました。
 「そやから、おまえの飼い主も、おまえを見つけられへんのやないかなあ」
 そうかなあ、そうかもしれない、とネロは思いました。
 「うん。そうかもしれん」
 けど、そんなのしょうがないやんか。
 「そんで、俺は、考えたんや」
 え?そんでって?何を何を??
 ネロは、耳をぴんと立てて、おじさんの言葉を待ちました。
 「花をくわえたら、どうやろう」
 「花?」
 え?花??
 わからない、という顔をしました。
 「花をくわえていたら、目立つやないか」
 あ、そうか。それは、ええ考えかもしれんなあ。
 「それに、」とおじさんは続けて言いました。
 「しづちゃんは、花が大好きやって言うてたやろ」
 「うん」
 「だいたい、人間の女の子、っていうんは、みんな花が好きなんや。おまえが、花をくわえてたら、きっと、しづちゃんも、気いつくんやないかなあ」
 「うん」
 とってもええ考えや。
 「ありがとう。おっちゃん」

 別れ際に、おじさんは、もう一度、
 「一緒に来いひんか」
 と聞きました。おじさんは、隣の街に行くのです。
 「ううん」
 とネロがこたえると、おじさんは、少しさみしそうな顔をして、
 「そうか」
 と言って、それ以上しつこくは言いませんでした。
 「ほな、元気でな」
 「おっちゃんも元気で」
 「おう。ほな、さいなら」
 「さようなら」
 おじさんが見えなくなると、少し悲しくなって、ネロは泣きました。
 でも、泣いてばかりはいられません。ネロは、花を探しはじめました。

 花をくわえたネロは、しづちゃんを探して、毎日、毎日、街の中を歩き回りました。
 壊れた自分の家を見に来る人たちや、工事の人たち、ボランティアの人たちや、焼け跡の写真を撮りに来た人たち。少しずつ人を多く見かけるようになっていきました。
 ネロは、しづちゃんに似た女の子を見かけると、火傷の傷と疲れで重くなった足を引きずりながら、一生懸命に、しっぽをふって、足元に駆け寄るのです。
 けれども、いつも、人違い。
 「かわいい」と言って、手を伸ばそうとする女の子をしり目に、ネロは、しっぽをおろして、とぼとぼと立ち去るのでした。
 疲れ果てて、家にたどりつくころには、足は棒のようでした。
 柿の木の下の兄弟たちの眠る石積みのお墓の前に花を置くと、しづちゃんを思い出して、涙が出ました。
 炭になった瓦礫の下に潜り込んで、ネロは、泣きました。
 おなかはいつもすいていました。
 キジトラ猫のおじさんが言ったように、街の中の食べ物は、ほんとうに少なくなっていたのです。

 地震から、2カ月が過ぎて、春がもうすぐそこまで来ていました。
 後ろ足を引きずりながら、花をくわえて坂道を歩いていく猫を、何人もの人が見かけました。
 「どうしたんやろう」
 と怪訝そうな顔をする人もいました。
 足を引きずっているのを見て、
 「かわいそうになあ」
 と言う人も。
 けれども、誰も、それ以上に、ネロにかかわろうとはしませんでした。
 猫になどにかまっている余裕などなかったのです。
 仕方ありませんでした。誰もが自分のことで精一杯。地震で壊れたり火事で焼けたりした家やお店をどうしようか、街をどうしようかということで、みんなの頭はいっぱいだったのです。

 そんなある日の午後のことです。
 ネロは、長い坂道を上っていました。
 春先とはいうものの、とても冷たい風が、吹いていました。
 やがて、風の中に雨が混じり出したかと思うと、いきなり、雨が激しく降りだしました。
 横殴りの雨を避けようにも、まわりは、焼け落ちた家ばかりです。
 冷たく激しいみぞれ混じりの雨でした。
 針で刺したような痛みを体中に感じて、ネロは、何度も、悲鳴を上げました。
 ようやく瓦礫の小さなすき間を見つけて潜り込みましたが、雨と風は、狭いすき間の中にも容赦なく吹き込んできます。
 ──怖いよう。寒いよう。
 空腹と寒さと疲れの中で、そう思ったとき、ネロは、ふと、しづちゃんの声が聞こえたような気がしました。
 「ものすごーく冷たい雨の中やったんよ、あんたを見つけたんわ」
 しづちゃんから、何度も聞いた話でした。
 しづちゃんは、ネロをひざの上に乗せて、
 「あんたは、えらかったなあ。ようがんばったなあ」
 と何度も繰り返し言って、やさしく背中をなでてくれました。
 しづちゃんの柔らかいひざと掌の温もりに包まれて、ネロは、
 ゴロゴロゴロ
 とのどを鳴らしました。

 気がつくと、いつの間にか雨はやんで、雲の間からお日さまが顔をのぞかせていました。
 雲のすき間からいく筋もの帯になって漏れ出した光が、濡れた街をキラキラと輝かせます。
 ネロは、よろよろと立ち上がって、瓦礫のすき間から出ました。
 さっきまでネロを激しく悩ませていた空腹も寒さも疲れも嘘のように消えて、からだが、とても軽く感じられました。
 冷たい北風は収まって、東からの暖かいそよ風に変わっていました。
 ふと坂の上を見上げて、ネロは、
 「ミャッ」
 と声を出しました。
 陽の光に照らされて七色に輝く坂の上には、一面の花畑が、広がっているではありませんか。
 「ミャー」
 と叫んで、ネロは、走り出していました。
 しづちゃんも、花を摘む手を休めて、走り出しました。
 楽しそうにしづちゃんを追いかけながら、周りを駆け回る三匹の子猫たち。笑顔のお父さんとお母さん。
 しずちゃんは、いつもの笑顔で駆けてきます。
 「ミャー」
 ネロは、しづちゃんの腕の中に飛び込みました。

 雲の上まで続く大きな虹を、街の人々は見上げました。
 「きれいな虹やなあ」
 「ほんま、くっきりとした虹や」
 「明日は、ええことあるで」
 空を見上げながら、誰もが、ふと、幸せな気持ちになりました。
 けれども、七色のきざはしの上に、やっと巡り会えた黒猫と少女がいて、彼らこそが、そのとき一番幸せだったということに気づいた人は誰もいませんでした。

           (終)

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