待つ男



 この街はいつも賑やかだ。
 中でも、メインストリートが直交するこの辺りは、格好の待ち合わせ場所になっていて、特に、交差点の南東側と南西側に競い合って立っているデパートの前は、ほとんど絶え間なく誰かを待つ人々でにぎわっていた。
 どちらのデパートも、店の軒先が待ち合わせ場所に使われることを歓迎している様子で、集まる人々を当て込んだウインドウのディスプレイには力が入っている。
 僕は、その一方のデパートの前に、モスグリーンのポロシャツにブルージン、いかにも学生といったふうの目立たない服装で立っていた。
 「待ったぁ?」
 男の声がした。
 僕は、さりげなく、その方に目をやる。
 グレーのソフトスーツを着たサラリーマンらしい若い男が、僕の隣にいた女に声をかけたのだ。
 薄桃色のブラウスを着て、原色でプリントされたトロピカルな花柄のタイトスカートをはいた、二十歳そこそこの女は、ふいに現れた男に少し驚きながら、自分も今来たばかりだというようなことを言った。
 僕は、客観的な傍観者の冷めた目で、出会いのドラマをつぶさに眺めていたが、彼らは、そんな僕には全く気づく様子もない。恋人たちの常で、お互い以外には、何も見ていないのだ。
 二人は少し言葉を交わし、雑踏のなかに消えていった。
 「お待たせ。」
 別の方で、また、別の出会いがあり、僕は、やはり、さりげなく、そちらに目と耳を向けた。

 子供の頃から、よく人待ちをした。
 「人待ち」とは言えないかもしれない。暇を持て余して、することもなく、ただ立ち尽くしているだけと言えば、そうとも言える。
 実際には、待ち人が誰かと問われれば、答えようがないのだから。
 幼い僕も、そのことは知っていた。そして、さみしい気持ちになったこともあった。
 することがなく、ただ、ぼんやりと街角に立っているのだと自分自身も思っていたから。
 だが、続けているうちに、実は、そうではないということが、漠然とわかってきた。
 ただ単に、街角に立ち、暇にあかせて人を見ていたのではなく、ずっと、誰かを待っていたのだ。
 僕は、いつも誰かを待っていた。だからこそ、決してくるはずのない待ち人をひたすら待ち続けるひとり遊びに、いつしか、あれほど熱中するようになったのだ。
 小学生が、街角に、ただ、じっと立ち尽くしているのである。
 端から見れば、一瞬、変に見えるかもしれない。
 だが、ずっとひとりぼっちでたたずんでいても、人を待っているそぶりさえしていれば、誰も変には思わない。
 「ねえ。坊や。誰かを待ってるの?」
 行きがけの駄賃に、さも親切ぶって聞いてくるおばさんたちもたまにはいたが、そういう場合には、
 「うん。」
 と肯いて見せればいいということを、僕は子供ながらにちゃんと心得ていた。
 すると、大人たちは、たいてい、それ以上は聞かず、自分の親切が役に立ったという満足な表情を浮かべて、どこかに消えてくれた。
 そして、僕はまた、ひとりで、人待ちを続けた。

 中学に入って、クラブ活動や受験勉強が忙しくなると、ぱったりとやらなくなり、長い間忘れていた。
 それが、大学をさぼり始めるようになって復活したのだった。再開から半年たったこの頃では、義務とでも言うほどに、日課になっている。
 少し違うのは、さみしい街角の電信柱の影ではなく、人々が集まるような場所に立つようになったことだった。
 午前中を、カーテンを締め切ったくらい部屋のベッドの上で過ごし、午後遅くにのそのそと起き出して、街に出ていく。最近では、そういう生活のパターンが身についてしまっていた。
 待っても、誰も来ない。
 そんなことはわかっていた。子供の頃から、ずっと。
 だが、待ち人が決してこないと最初からわかっている人待ちは、慣れてみれば、苦痛ではなく、むしろ、楽しい。
 それは、無駄なこと。言ってみれば、遊びだ。
 初めから駄目だとわかったクジを引くようなものである。何の期待もない代わりに、何を残念がることもない。
 初めから来ないとわかっているのだから、いつ来るかいつ来るかという、無人島で助けを待つロビンソン・クルーソーの苦しみを味わうことはないのである。

 両親は、共稼ぎだった。
 雨の降る放課後、親たちが、傘を持って迎えに来るのを、友だちと一緒に、教室の窓から眺めていた。
 誰それは一番だとか、誰それはお姉ちゃんが迎えに来ただとか大声で騒ぎながら時間を過ごした。
 あのとき、それに気づいていたかどうかは別にして、きっと、窓際に並んだ子どもたちの誰もが、少しずつの不安を抱いていたに違いない。自分の待っている誰かは、いつ来るとも来ないとも知れないのだ。
 だからこそ、みんなが、あれほど、大声で騒いだ。浮かれたように走り回るやつもいた。
 あのばか騒ぎと笑い声は、無意識に、仲間に向けた、そして、何よりも自分に向けたエールだったのだ。
 だが、不安を共有することによって成立した仲間意識は、原因の解消と共にもろくも崩壊する。
 自分のお迎えを見つけたものたちは、それまでの不安と共に、仲間の存在など全く忘れて、教室を後にした。
 そんな中で、僕は、今にも、誰かが、僕の傘を持って迎えに来てくれるのだというふりをして、決してくることのない誰かを待っていた。
 いつしか、仲間は、次々と減っていき、最後には、数人だけが取り残された。
 僕は、いつも、その数人の一人だった。
 僕たちは、よそよそしい笑顔と少しの言葉を交わして、逃げるように教室を出ていく。
 謂われのないことで負けを強いられ、負け惜しみに嘘をつく。そういう癖が、子供の頃に身についたのかも知れない。
 雨の中を濡れながら走って、誰もいない家に帰った。

 白い服の少女は、初めの数分は、落ち着きなく辺りを見回したり、立ち場所を日向から日陰へと少し移動したりしていたが、その後は、じっとして、ほとんど一点を見つめたまま立ち尽くしていた。
 一四、五才だろうか。だが、それ以上だと言われれば、そのようにも見えるし、それ以下ではないという確信も持てない。
 彫りの深い端正な顔だちをしているが、女と言うよりは、まさに、少女と言う方が相応しいように思えた。
 長い髪、華奢な手足、胸が薄く、腰の張りもない。僕の中で、彼女の雰囲気は、大人の女になる前の、少女という概念にぴったりと合致した。
 白いワンピースがよく似合っていた。
 彼女をじっと眺めていた僕は、不意に、妙な感覚にとらわれた。
 もしかしたら、僕は、ずっと、彼女を待っていたのかもしれない。
 そう思い始めたのだ。
 何故かはわからない。
 今から思えば、少女から受けるイメージが、僕がずっと抱いていた待ち人のイメージだったのかも知れない。
 菩薩を思わせる美しい顔だち。すっと通った鼻筋と切れ長の眉。そして、憂いを帯びて見えるうつろな眼差し。
 僕の中で、徐々に聖なる存在へと高められていくにしたがって、彼女が僕の待ち人に違いないという思いが高まっていった。
 それと平行して、彼女が待っているはずの待ち人と、僕自身がオーバーラップしていく。
 僕の待ち人が彼女で、彼女もきっと僕を待っているんだ。
 そう考えれば、僕がじっと彼女を待っている間、彼女もまた、僕が声をかけないからずっと同じ場所に立っているという、それまでの僕と彼女の行為に説明がつくような気がしたし、それ以外には、説明のつけようがないようにさえ思えた。
 ならば、僕は、子供の頃からずっと彼女を待っていたのではないだろうか。
 あるいは、雨の中の教室で、僕が待っていたのは、来るはずのない母ではなく、この少女だったのではないだろうか。
 赤い糸の話を真面目に信じはしないが、運命的な出会いを否定する理由はない。
 人待ちをしていて、こんな気持ちになったのは、初めてだ。
 彼女にだけ、こんな気持ちになるのだから、それは、彼女が特別なのだと思わざるを得ない。
 きっとそうだ。
 彼女は、相変わらず、一点を見つめて立っていた。
 けれども、もう、僕には、彼女が真空に思い描いているものが、そして、彼女が待ち続けている待ち人が、僕自身であることを疑う余地はなくなっていた。
 ならば、僕は行かなければならない。
 彼女の側に行き、声をかけなければ。
 このまま、彼女を待たせておくわけにはいかないのだ。
 しかし、いざとなると、僕の憶病さは、いきなり頭をもたげる。
 「もしも」という打ち消しの言葉が、脳裏を過ぎった。
 もしも、万が一、彼女の待ち人が僕でなかったら、……。
 「待たせてごめんなさい。」
 といった僕に、
 「え?私、あなたなんか待ってません。」
 と彼女が言う。そして、たじろぐ僕に追い討ちをかけるように、
 「何かの間違いです。」
 と付け加えて笑うのだ。
 たくさんの人が見ている。僕は笑いものにされるに違いない。
 屈辱の恥ずかしさ、それは、僕が最も恐れることだった。

 「すみません。」
 という声に振り替えると、胸に英語で大きく「安全な性交」と書かれたTシャツを着た少年が立っていて、僕に、ライターを持っていないかと聞いた。
 僕が、無愛想に、
 「ない。」
 と答えると、彼は、何も言わずに、僕の側を離れ、右隣にいた別の男に、また、同じことを聞いた。
 僕は、再び、少女の方に視線を戻す。
 「あっ。」
 思わず、声が出た。
 少女は消えていた。
 消えたという以外に正確な言葉が思い浮かばない。
 僕が目を離したほんの数秒の間に、何が起こったのかわからないが、事実として、彼女は、もうそこにはいなかった。
 僕以外の待ち人が現れて、彼女を連れていったのか?
 いや。そんなことはない。彼女の待ち人は僕なのだから。
 ならば、待つことを諦めて、帰ってしまったのか?
 それならば、僕の責任だ。僕が、声をかけるのを躊躇ったから、……。
 辺りを見回したが、彼女の姿はどこにも見えなかった。
 それからも、僕は、毎日、この場所に立っている。
 だが、もう、誰かを待っているのではなくなった。
 あの日から、ずっと、彼女だけを待っている。いつ来るとも、永遠に来ないとも言えないまま、こうして、彼女を待ち続けている。
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