あひみての



 あひみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり

 「こんにちわ」
 「こんちぁ」
 僕たちの会話は、おきまりのあいさつで始まる。
 「今日は、銀座に『モーリス・グリーン』の試写会に行ったの」
 夏美は言った。
 『モーリス・グリーン』は、近日全国公開される予定の話題の映画だった。
 監督は、売れっ子のジョリス・ベイルート。前作の『スケアクロウ』でアカデミー賞を取って一躍ハリウッドの表舞台に登場した若手監督。
 主演男優は、ドラマ『リック』で主役リックの好敵手エドを演じて、主役をしのぐ人気のダニエル・A・ギルバート。
 主演女優は、映画『ペティの結婚』『ディア・ウーマン』で、名演技を見せたフランス出身の女優ズザンヌ・キャベラリ。彼女は、往年のフランス映画の名優フィル・キャベラリの娘。
 それらのことを週刊情報誌の特集記事を読んで知っていた。
 「へえ。すごい。どうだった?」
 わざと大げさに言って見せた。もちろん、彼女を喜ばせるために。
 そして、案の定、彼女は、喜んでくれた。
 まるで、それが、お約束だったように。
 「よかったわ。私、泣いちゃった。」
 映画館の赤いベルベットの座席に座って泣いている夏美を想像した。
 「あれは、アカデミー賞の最有力候補らしいね。僕は、『want love』の方が好きだけど」
 情報誌の受け売りだった。『want love』の内容ももちろん情報誌には載っていたのだ。
 「ダニエルが超かっこよかった」
 「彼は、注目されてる若手だよね」
 「映画詳しいのね。よく見るの??」
 「まあ、少しだけ」
 本当は、映画はあまり見なかった。映画館にいくのは面倒だったし、お金もなかったから。
 「何でも、少しだけ、詳しいのね」
 彼女は笑った。
 少しだけ、というのは、僕が会話の中でよく使うフレーズだった。
 情報誌やそのほかの週刊誌。テレビ、ラジオ、新聞。そして、友だちとの会話。
 少しだけの情報がそれらには載っていた。
 そんな少しだけの情報が、たくさん集まって僕の世界はできていた。
 「今度、映画を見に行こうよ」
 言いだしたのは、夏美だった。
 「そうだね。行こう」
 僕は、すぐさま同意をした。

 小西夏美は、大学の三年生。
 大学は、都内にあるT大で、彼女は埼玉の実家から1時間半をかけて大学に通っていた。
 京都の大学を受けて一人暮らしをしたかったのだが、それは親の反対であきらめざる終えなかったらしい。
 出会った頃に、僕たちは、そんな話をした。
 「一時間半は、辛いね。」
 「そうなの。一、二年のときは、おやじたちと一緒の通勤電車」
 夏美は、苦笑いをした。
 ──もしかしたら、一人暮らしかもしれない
 最初。大学生と聞いたときに、僕は、ひそかに期待した。
 たとえば、一人暮らしの女性がいたとして、それが男にとってチャンスであるということとの現実的なつながりはきわめて薄い。
 ましてや、そのチャンスの恩恵に預かれる幸運──?──な男が自分であるという可能性は皆無に等しい。
 それでも、男たちは、チャンスを信じ、妄想にふける。
 いわゆる淡い期待というやつだ。
 けれども、この場合、一瞬だけふくらんだ僕の淡い期待は、すぐに打ち砕かれた。
 会話の中で、夏美が、家から大学に通っているということは、すぐにわかった。
 僕は、また、新しい期待を探さなければならなくなった。
 ステロタイプな淡い期待。
 
 別の日、僕たちは、こんな話をした。
 「ダイエットしようかな、って思って」
 夏美が言った。
 夏美は、一五八cm。
 前に聞いたときに「内緒ね」と言いながら教えてくれた体重は、45kg。
 どちらかと言えば痩せているくらいだ。
 「そんなに太ってないでしょう?」
 「おなかのまわりが・・・・」
 夏美は、てれ笑いをしながら言った。
 「それは、スポーツをしてひきしめないとね」
 僕は、マニュアル通りの台詞を言った。
 「スポーツか。・・・最近、なにもしてないものな」
 「前は、何かしていたの??」
 いい話題が見つかった、と僕は思った。
 「高校のときは陸上部だった」
 「へえ。陸上か。短距離?長距離?」
 「短距離。私、持続力なくって」
 夏美は、自分で言って、爆笑した。
 風を切って疾走するユニフォーム姿の夏美を想像してみた。
 髪は、ショートカットかポニーテール。赤いアスリートシューズ。倒れ込みそうなほどに胸を突き出して駆け抜けるゴールシーン。
 「ラグビーをしてたんだよね?」
 夏美の質問で、現実に引き戻された。
 「そう。中学・高校とね」
 中学のときに、一生懸命、死にそうな練習をしてレギュラーをとって、高校では辞めたかったのだけど、先輩と監督の先生に無理やりはいらされた。
 ポジションは、ライトウイング。
 県大会ではいい成績を残したけど、結局はインターハイには出られなかった。
 というようなことを、僕は、夏美にも言っていた。
 嘘だった。
 本当は、中学のときは野球部だった。しかも、補欠。
 先輩が怖かったのと、これといって他にしたいこともなかったから練習には出ていただけ。
 高校に入ると、きっぱりと辞めた。
 そして、三年間、いわゆる帰宅部に所属した。
 ラグビーにライトウイングというポジションがあるというのは、テレビか何かで耳にしていたんだと思う。
 帰宅部と言うのに肩身の狭いばつの悪さを感じて、たまたま、マスコミで活躍している元全日本の監督が同じ高校の卒業生だったからというのと、男らしいスポーツというイメージで、ラグビー部だったと言うことにしていた。
 大学で友人たちに聞かれても、僕は、ラグビー部出身で通していた。
 嘘がばれてしまうほど深く突っ込んだ話は誰ともしなかったし、それに、そんな嘘を言ったところで誰かに迷惑をかけるわけでもないし。

 また別の日に、旅行の話をしたこともあった。
 香港の話題が出たときのことだった。
 「香港行きたいな。夜景を見たい」
 夏美は、憧れをあらわにして、そう言った。
 「ビクトリアピークの夜景は、すごく綺麗」
 僕は言った。いかにも、自分が見てきたような口ぶりだった。
 「香港に行ったことあるの??」
 半ば期待し半ば恐怖したお約束の質問だった。
 冷めた恍惚感を覚えた。
 嘘のもつ罪悪感と、嘘によってもたらされる称賛の喜びへの期待の入り交じった気持ち。
 その称賛が、現実的には無価値のものだとわかっていたとしても。
 抗うことなく、その甘美な誘惑に自分を任せた。
 「うん。一度だけね」
 僕は言った。
 そんなことは、大したことじゃないんだ、という意味を込めて。
 「へえ。いいなあ。私、海外は、まだ一度も」
 夏美は、執拗に僕を誘惑する。
 「国内旅行も好きだよ」
 旅行は好きだ。確かに、それは嘘じゃない。
 けれども、旅行が好きと言うのと、よく旅行するというのは、全然別のはずじゃないか。
 名所、旧跡、見どころ、味どころ、ホテル、ペンション、テーマパーク。それらの情報は、巷にあふれている。

 夏美と会うのは、夜中の十二時頃が多かった。
 どちらが先に来ても、待ち時間は、五分もいらなかった。
 僕が先に来たときは夏美が、夏美が先にいるときには僕が、すぐあとから来た。
 「明日だね。」
 約束の念を押すように、僕は言った。
 「うん。十一時半。」
 夏美がつけ足し、
 「渋谷の****」
 僕が、更に、つけ足した。
 明日に備えて、僕たちは、いつもより少し早めに別れた。

 約束の時間より、三〇分早く、僕は、渋谷に着いた。
 期待と不安はあったが、興奮も緊張もしていなかった。
 渋谷の喧騒は、ナイーブな感覚を麻痺させるのかもしれない。
 けれども、こんなふうにも、考えた。
 ──興奮も緊張も、するはずがないのかもしれない。
 この一カ月ほどの間、毎日、夏美に会っているのだ。
 実際、僕は、小西夏美について、たくさんのことを知っている。

 彼女の生年月日は、一九七七年五月一一日。
 血液型は、A型。
 父親の職業は、公務員。
 母親は、典型的な専業主婦。
 兄と妹がいる。
 兄は、大学を出て、建築会社に勤めていた。建築も今は不況らしい。
 妹は茶髪の女子高生。
 文学部仏文科。
 担当教授の名前だって言えた。
 好きな色は、青。(これは、僕と一緒)
 好きな画家は、モネ。
 音楽は何でも好きだけど、今一番のお気に入りは、ロックグループのセプタ。毎月1度は、ライブに行っていると彼女は言っていた。
 好きな俳優は、ダニエル・A・ギルバート。
 好きな食べ物は、イタめしとケーキ。
 ・・・・・・・・・and etc.etc.
 
 渋谷を歩きながらしばらく時間をつぶして、五分前には、僕は、約束の場所に着いた。
 ──先に、来ているかな??
 夏美を探してみた。
 けれども、それらしい女性は、見つからない。
 僕は、ポケットから、折りたたんだ紙を取り出した。
 出がけにプリントアウトした夏美の写真だった。
 メールに添付して送ってきたその写真は、最初から、あまり写りがよくなかった。
 おそらくは、写真をスキャンニングしたスキャナーのせいだったのだろう。
 もう一度写真を見て、自分の記憶を確かめてから、また折りたたんでポケットにしまった。

 「こんにちわ」
 先に声をかけたのは、夏美だった。
 「こんにちわ」
 ──あちゃ!!しまった!!
 少し上ずっていたかもしれない。
 夏美は、にっこりと笑った。
 「よかった。でも、約束通りの服装だから、すぐにわかった。白いTシャツに緑のバンダナ。それに、写真にそっくりだし」
 メールに貼付した写真を夏美に送っていた。
 「そりゃ、写真だからね。」
 僕は、冗談を言った。
 「そうか」
 二人は、顔を見合わせて笑った。
 現実の夏美に会うのは、初めてだった。
 彼女は、花柄のAラインのワンピースを着ていた。
 実際の夏美は、想像していたより小柄で子どもっぽく、かなり痩せていた。

 僕らは、ときどき、横を見て、話をしたりしながら歩いた。
 夏美の手をとって歩こうかと思ったが、やめた。
 拒絶されるのが、怖かったから。

 マックで昼食をとるとき、マニュアル通り、夏美の斜め前の席に座った。
 けれども、二人の会話はとてもぎこちなく、いつものようには長く続かなかった。
 幸いなことに、映画の放映時間は迫っていた。
 『スピノザ』
 天才の愛と孤独を描いたイタリア映画で、監督は、鬼才と言われるジジョット・ロッセ。
 全国公開ではなく、その映画館だけの封切りで、しかも三日間だけ上映される、いわゆる通好みの映画。
 映画の途中で、何度も、夏美の方に目をやった。
 横顔。唇。耳。首筋。胸のふくらみ。膝にのせられた手。脚。そして、靴。
 夏美も、何度か、こちらを見ているようだったけれども、結局、二人は、一度も、目は合わせなかった。

 喫茶店で三〇分ほど話をしてから、駅にむかった。
 急いだのは、夏美だった。
 家の側で済ませたい用事があるから夕方までには帰らなければならないと彼女が言った。
 その申し出に少し胸をなで下ろしながら同意した。
 夏美の容姿に不満があったとか、そんなことじゃ決してない。
 美人というのではなかったけれども、彼女は、十人並み以上には可愛かった。少なくとも、僕の持っていたピンぼけ写真よりは、数倍。
 実際の夏美と逢いたい。
 インターネットでの出会いの最初から、僕はずっとそう思っていた。
 実際に逢って一層、夏美に惹かれ妄想をふくらませたのも決して嘘ではなかった。
 それでも、なお、僕は、早く帰らないといけないという夏美の提案に安堵した。
 奇妙な居心地の悪さに耐えかねてのことだった。
 二人は、会ってからずっと、そして、今も、少し手を動かせば、お互いに触れ合えるほど、すぐ近くにいた。
 けれども、隣を歩いている夏美は、とても遠くにいる人のように感じられた。
 僕のとなりに彼女の居場所はなく、彼女の隣は僕のいる場所ではなかった。
 ここにいる夏美は実は幻で、本当の夏美はずっと遠くにいるのではなかろうか。
 あるいは、僕が幻なのかも知れない。
 ──僕は、ここにいるべきではないのだ。
 奇妙な焦燥の原因は、空間が、本来そこに在るべきではない絶対的な異物をはじき出して平衡状態に戻ろうする作用だったのかもしれない。

 別れ際、すぐ目の前で、最初と変わらない笑顔を見せる夏美を遠くに見ながら、人の笑顔はこんなふうだっけ、という奇妙な疑問を感じた。
 「さようなら。」
 夏美の声は、速度を遅くして再生したレコードのようにゆがんで聞こえた。
 とたんに、笑っているはずの彼女の顔が、能面のように無表情に見えた。
 加速度的に色彩を失っていくモノクロームの夏美は、目の前にいながら、見えなかった。
 「さようなら」
 妄想で描いていた計画を少しも実現することなく、僕は家路に着いた。

 その晩、何事もなかったように、チャットに顔を出した。
 ほどなくして、夏美が、来た。
 「こんにちわ」
 「こんにちわ」
 「今日は、ありがとう。楽しかった」
 「こちらこそ、ありがとう。楽しかったよ。」
 夏美はまた僕のそばに戻ってきていて、色彩も取り戻していた。
 その代わりに、ほんの数時間前、今日の昼間の出来事が、とても昔の記憶のように、色彩を失っていった。
 「とても、可愛かったから、びっくりした」
 僕は、昼間伝えられなかったことを文字にしてみた。
 「ジローさんこそ。写真より、かっこよかった。」
 二人とも、ほほ笑んでいるということを表す顔文字をつけての発言だった。
 
 百人一首でも有名な和歌の最初の言葉がふと頭に浮かんだ。
 あひみての
 ぼくは、こんなふうに読み替えてみた。

 あはざりし ころのこころに くらぶれば のちにはものを おもわざりけり

 夏美とは、それからも、数週間チャットで会ったが、やがて、どちらからともなく回数が減ってきて、そのうち、会うこともなくなった。
 僕は、チャットでのニックネームを変えた。

前のページに戻る